神が満ちている国 日本

日本と神道

近頃、毎月のように訪日外国人の数が過去最高になったというニュースを聞きます。 先日行われたアメリカ大リーグの開幕戦に来日した選手、同行したその家族やスタッフ、報道関係者が日本でのおもてなしや体験、感動を様々な形で発信しています。 今世界中で日本ブームが巻き起こっているのを知ってらっしゃいますか? 寿司店、ラーメン店のみならず、うどん、弁当、おにぎり、居酒屋などが海外に広がっています。 マンガは各国の本屋の棚に並び、所によっては書架6幅以上を占領するといいます。 日本文学も多く翻訳され、村上春樹の新刊本などには行列ができます。 子供の頃から日本のアニメを見て育った若者が増え、日本語を学ぶのが人気の国も多いと聞きます。 二十代になったら一度は日本に行ってみるべき、という若者の流行りのようなものもあるそうです。 日本に来られた多くの方々は、美味しい食事、静かな環境と清潔な街並み、時間に正確な公共交通機関、優しく礼儀正しい親切な日本の人々に感銘を受けるそうです。 また近代的な建物に隣り合って不意に神社や寺院が現れ、現代と数百年経つであろう宗教施設が共存する姿に驚嘆し日本らしさを感じると言います。 時に世界では、日本を語る際「日本という惑星」とか「日本は人類が成し得た理想形に一番近い国、未来を生きている国」などと表現されています。 この国を作り得た私たちの文化とはどのように生れ、育まれてきたのでしょう?

私たちの周りには神があふれている                                 私の子供時代を振り返ると、生れ育った家は稲荷神社の隣でした。 家を出るとそこは神社の境内で私の庭でした。 参拝する人や祭りに係わる人たちがごく近くに存在していた日常です。 通った幼稚園は近くの諏訪神社の一角にある諏訪幼稚園で、年長さんの時は「さかき(榊)組」でした。 祭りの時はお稚児さんの格好をした覚えがあります。 また、母方の祖母が山形県の庄内地方にある神社の代々神主を務める家の出でした。 小学生の頃、海水浴に行く途中その神社に立ち寄り境内の石段で遊んだものです。 このように私の身近にはいつも神様がいました。                    私の場合はちょっと特殊な例ですが、皆さんの周りにも神様があふれているのではありませんか。何故?それが日本だからです。 私たちの住む国は周りを海に囲まれ、外からの影響を受けにくい環境にありました。 そのため、昔から変わらぬ形で現代に受け継がれてきたものが有形無形たくさん存在しています。 日本文化の神髄を為す神道という信仰形態はその代表でありましょう。 あらゆるものに神が宿るという考えは、日本人が持ち得た特有の感性があればこそ理解できます。 初日の出を待つ人々が、登る朝日を迎えると感嘆の声を上げ、思わず手を合わせる姿に自分を重ね共感する人は多いのではないでしょうか。 聖徳太子の時代には役人が日の出前に整列し、登る朝日に向かって日拝してから仕事を始めたことが記録に残っているといいます。 太陽神である天照大御神に対して…などと大仰に誰も考えません。 その神々しさ、有難みに思わず手を合わせてしまい、こうべを垂れてしまう感性。 全国津々浦々に神社や鳥居があり、道祖神やら神が鎮まる山の名を刻んだ石碑など合わせたら数え切れない神を祀り、家々にも神棚を設けて神様をお招きする。 一年単位で見ても、新年の初詣、どんと祭、節分祭、お田植祭、夏祭り、収穫祭の秋祭り、七五三に大祓い等……。 他にも地域特有の祭りもあると思います。 家を建てたり、工事を行うときは土地の神様を鎮める地鎮祭を行います。 海開き、山開きの神事も各地で行われます。 車、電車のみならず、飛行機やロケットもお祓いや交通安全祈願祭、航空安全祈願祭を行います。 横浜やお台場、福岡や大阪万博会場に設置されたガンダムは、胴体に頭を取り付ける時に神主を呼んで上頭祭じょうとうさいが行われました。(この実に日本らしい様子は海外でも取り上げられ、たくさんの驚きや感嘆の声が聞かれました)多くの会社では神棚をまつるにとどまらず、会社や最先端の技術を導入した工場の敷地内にお宮まであります。 会社やお店などに縁起物の熊手や破魔矢を見かけることもあるのではないでしょうか。 お守りを持ち歩き、最近では御朱印を頂く方も多くおられます。 昔、全国に伊勢神宮のお札を配った御師おんしと呼ばれた人たちがお土産に配ったという熨斗鮑のしあわびが、この現代でも身近に熨斗のし紙、熨斗のし袋として使われています。 このように神様に起因する風習や事物まであげたらきりがありません。 神道、神様は嫌いだ、という人は日本で生きていけません(笑)。 (昔、執拗に神道を異端視する人が身近にいたんです……苦笑)                    この日本に対して他国では多くが一神教です。 信仰の対象が明確です。 その点、日本は信仰の対象がきわめて曖昧です。 家内安全を祈り、学業成就を祈り、良縁祈願をし、安産祈願を行う。それぞれ別の神社、別の神様に参拝することなどお構いなしです。 そして神社の名前とご利益というお働きは知っていますが、多くの人がその神社がどなたを祀っているのか、ご祭神の正式なお名前を知りません。 水の神、風の神、山の神、海の神……そこにおわします神様、畏敬の念を感じる…実に日本らしいと思います。 お天道様が見てる、お天道様の下を歩けなくなる……など、どんな神様なのかの具体的姿はなく、なくともその存在は常に私たちの身近くで感じとってきたのです。 そんな日本人の感性を私たちは失わず、これまで持ち続けてこられたのは日本が置かれた特殊な環境と、これまで綿々と続く天皇(陛下)という柱、存在があったからと考えるのは言い過ぎでしょうか?  また、それらの感性が私たちの豊かな文化を育んだとはいえないでしょうか? 何故そのように考えるのか。 その答えに迫るため、次回から日本書紀の三大神勅を日月神示の視点を併せ持ちながら解釈してみようと思います。

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