令和5年11月5日、新嘗祭を行いました。 祭主:伊藤、祓い師:千葉、典儀:岩澤、奉納舞:斎藤、奉納演奏:MAXさん (12名) 今回茨城県より丸山さんが参加くださいました。丸山さんは私ども松の会と同じく日月神示を探究する活動をしている『千葉マアカタの会』の代表世話人であり、日月神示発祥の地である千葉県成田の麻賀多神社において隔月で勉強会を開催されています。 また、旧九月八日祭に続き鹿児島から仙台に滞在中のMAXさんにより、オーストラリア原住民アボリジニーの楽器ディジュリドゥの演奏を神前にご奉納いただきました。
前回の投稿に毎回祭祀の中で日月神示を奏上する旨、記しましたが、今回開きました帖が参列者の胸に刺さりましたので、手元に神示を持たない方に伝わるように長文ですが記載させていただきます。
雨の巻 第十三巻 第十二帖
表面洗へばよくなるなれど、肝の掃除なかなか出来んぞ、道広める者から早う掃除まだまだであるぞ、今度神から見放されたら末代浮ぶ瀬ないぞ。食ひ物大切に家の中キチンとしておくのがカイの御用ざぞ、初めの行ざぞ。出て来ねば判らん様ではそれは神力無いのぞ、軽き輩ぢゃぞ、それで神示読めとくどう申してゐるのざぞ、神の申す事誠ざと思ひながら出来んのは守護神が未だ悪神の息から放れてゐぬ証拠ざぞ、息とは初のキであるぞ、気であるぞ。悪神は如何様にでも変化るから、悪に玩具にされてゐる臣民人民可哀想なから此の神示読んで言霊高く読み上げて悪のキ断ちて下されよ、今の内に神示じっくりと読んで肝に入れて高天原となっておりて下されよ。未だ未だ忙しくなって神示読む間もない様になって来るのざからくどう申してゐるのざぞ、悪魔に邪魔されて神示読む気力も無くなる臣民沢山出て来るから気付けておくのざ。まだまだ人民には見当取れん妙な事が次から次にと湧いて来るから妙な事此の方がさしてゐるのざから、神の臣民心配ないなれどそうなった神の臣民未だ未だであろがな、掃除される臣民には掃除する神の心判らんから妙に見えるのも道理ぢゃ。天の様子も変りて来るぞ。何事にもキリと云う事あるぞ、臣民可哀想と申してもキリあるぞ、キリキリ気付けて下され、人に云ふてもらっての改心では役に立たんぞ、我と心から改心致されよ、我でやらうと思ってもやれないのざぞ、それでも我でやって鼻ポキンポキンか、さうならねば人民得心出来んからやりたい者はやって見るのもよいぞ、やって見て得心改心致されよ、今度は鬼でも蛇でも改心さすのであるぞ。これまでは夜の守護であったが愈々日の出の守護と相成ったから物事誤魔化しきかんのぞ、まことの人よ、よく神示見て下され、裏の裏まで見て下され、神国の誠の因縁判らいで、三千年や五千年の近目ではスコタンぞ、と申してあろがな、天四天下平げて、誠の神国に、世界神国に致すのざぞ、世界は神の国、神の国真中の国は十万二十万年の昔からでないぞ、世の元からの誠一つの神の事判らな益人とは申されんぞ、神の申すこと一言半句も間違ひないのざぞ。人民は其の心通りに写るから、小さく取るから物事判らんのざぞ、間違ひだらけとなるのざ、人民が楽に行ける道作りて教へてやってゐるのに、我出すから苦しんでゐるのざ、神が苦しめてゐるのでないぞ、人民自分で苦しんでゐるのざと申してあろがな。十二月七日、七つ九のか三神示。
信じていても、いざ自分の事となると自分に甘え、流されていってる人が多いのではないでしょうか。多くの人々を指す人民に対して神を信じる者たちを臣民と表しているように思います。そんな臣民でさえ掃除される者もあり、まだまだだぞと語りかけています。
夜の守護から日の出の守護に相成れば誤魔化しは効かないのです。(夜の守護、日の出の守護については一考ありますので、別途投稿させていただきます。)