6月の夏越しの大祓いを終えてすぐ7月6日(日)太日月大神之宮7月の月次祭がやってきました。 祭主は私。 精一杯祭主を務めさせていただきましたが、終了後、撤収作業中に具合が悪くなってしゃがみこんでしまいました。 その後7月12日(土)の御光の御祭りを欠席させていただき、8月3日(日)に行われた月次祭では祭祀途中で腰に痛みを感じてしまいます。 思うように祭祀に集中できず不条理さをも感じておりました。 しかし、そんな中でも見えない神は確実に一つの流れに私を誘おうとしていました。
金華山へ 実は6月に訪ねて来られた時からOさんに、「東北の地で強い霊的地場と思しき神山霊地にてあるご神行を行いたい。その一つに金華山があり、ついては彼の地の神に縁深きいとーさんに案内役をお願いできないか」と依頼を受けていました。 しかし体調が芳しくなくズルズル時ばかりが過ぎておりました。
8月も半ばに差し掛かろうとした時、Oさんから一通のメールが届きました。 山形の月山でご神行するため前乗りで20日山形に宿を取る事、ついてはそれに合わせ19日金華山、20日に私どもの太日月大神之宮で神事を行い山形へ、とはどうでしょうか?というものでした。 私は一も二もなくこの提案に乗りました。 8月20日が塩づくりの神事を行った6月21日と同じかのととりの日であることを知っていたからです。
8月19日 金華山神行 私は金華山の日程が決まり、その準備をしている中で見えない神が導こうとしている流れをおぼろげに掴み始めていました。 はたしてもう一人の自分の迷走なのか、それとも確たる導きあればこそなのか?あと必要なものは背中を押してくれるその確信だったのです。 当日金華山に渡ったのはOさんと松の会の渡辺君、それに私の3人。海上タクシーで向かう金華山の山頂付近には雲が掛かり、平成元年私が山頂付近で異界に足を踏み入れた時と重なる様子に緊張が走ります。(すべては金華山から…参照) 巳年ご縁年の黄金山神社で正式参拝(大護摩祈祷)を行い、平成元年と同じく御開帳されているご本殿前でも拝礼を許され、36年ぶりの感慨に浸らせていただきました。 参拝後、一緒にご祈祷を受けた栃木からの参詣者の方と名刺を交換し、ご縁の端緒をいただいたような気がしました。 さて、そうこうするうち時計は10時を過ぎており、帰りのフェリーの出発まで残されたのは3時間です。
目指すは金華山山頂より少し下ったところにある天柱石。 そこでご神行を行う予定ですが、簡単ではありませんでした。 息が上がり、鼓動は早まります。 三度ほど休憩を取らせていただきましたが、体力筋力が落ちただけではありません。(実は前日の検査で喘息を患っていることが判明していました)休憩は時間を浪費することになり、決断が必要でした。 私は渡辺君にOさんと先に行くように告げ、私が追い付けないようだったらご神行を始めてもらうように、またその時私に代わって祓いの大麻(オオヌサ:お祓いの道具 祓い串とも言う)を振ってほしいとお願いしました。 二人と別れ、休み休み山頂を目指していくと段々霧が立ち込めてきます。 ようやっとの思いで開けた所に出ました。 そこは平成元年7月、セピア色の霧の中で立ちつくし、外界と切り離されてしまった体験をした正にその場所でした。 大汗をかき、呼吸が落ち着くまでしばらくかかりました。 時間はかなり経っており、Oさん達は目的の場所で準備を終えているかもしれない。 そこで手筈通り私はその場所で祓いの祝詞を奏上しました。 同行の渡辺君が不慣れの為、幣振りだけお願いし、私が祝詞の言霊で祓う約束でした。 祝詞奏上を終えると同時に霧が風に流され始め、ぽつぽつと雨が落ちてきます。 清めの雨はすぐに止み、しばらくすると風も止みこころなしか霧も濃くなった気がします。
しばし霧の中にいると、視覚を制限され五感が研ぎ澄まされるのを感じます。 神域にて神様と対峙しているのを感じ取ったその時、何もかも分かりました。 こうなることは必然だった。 みんなと切り離されることは決まったことだったのだ。 人払いだったのだ。 一人であることが求められたのだ。 すると平成元年のあの体験も別の角度で見えます。 夜明け前の暗闇で案内役の懐中電灯の光を頼りに列をなして進む中から私だけが異界に入り込んだのは、人払いだったのだ。 一人で神様と対峙できるように切り離されたのだ。 36年(ミロク)の時を経て神意を理解したのです。
私と別れた二人は、彼らなりの貴重な体験をさせられておりました。 そして時間はかかりましたが、見事ご神行をやり遂げて下山してきたのです。 ご神行直後には霧が晴れ、それまで視界の開けなかった先に見事な太平洋を拝むことが出来たのです。 正にあっぱれです。(笑)
フェリーに乗り遅れること1時間。 予定外の出費となりましたが、海上タクシーに助けてもらい無事に鮎川港に帰ることが出来ました。 この日の仕上げに塩釜神社を参拝。 金華山のご神行を報告し、網地島での塩づくりの神事のお礼を申し上げました。
かのととりの日の神事 翌20日のかのととりの日、太日月大神之宮にて祭祀を行いました。 Oさん、渡辺君、私の三人で執り行いました。私が修祓(お祓い)後、Oさんがご神前にて祭祀を行う旨の取次の祝詞を上げ、Oさんに託し、後にこちらでの祭祀の進め方で祝詞を上げさせていただきました。 最後に順にお玉串を上げたのですが、Oさんの玉串の時に出口信一先生のお顔がふと浮かび、締めに信一先生の代理で玉串を上げさせていただきました。 Oさんと私たちのご縁を一番喜んで下さっているであろう信一先生のためでしょう、意図せずに玉串が1本多く用意されていたのです。
私はこの時には心が決まっていました。 今までずっと引きずってきた得体の知れない「くびき」の正体…。 思うような祭祀ができず、妥協して後悔は無かったのか? 責任を一手に引き受け汲々としてはこなかったか? 何より、神様に対してご神意に背くことと分かっていながらそれを容認してはこなかったか? 6月から明快に神様は示してこられました。 夏越しの大祓いが個人開催となり、塩づくりの神事を単独で行いました。 金華山では一人ご神行から離され、気づきを与えられました。 一人で神事出来るじゃないか…今までもやってきたことなのです。すると、単独でやれば良いんだ、毎月朔日詣りをしよう、一月は歳旦祭が出来る、毎回時に応じて祝詞を書くことも出来る、と湧いて出てくるのです。 太日月大神之宮の禰宜の役職を返上して、自分の思いを一番的確に表していると思う「ご祭神神仕」を名乗らせていただくことにしました。(すでにこのブログのプロフィールは変更されています)
大神様は見えない導きの神をお遣わせになり、私に型通りの祭祀の奉仕から脱却させ、神意に合わせ臨機応変に単独で祭祀を行う決意をするように促したのだと思います。 機動部隊でしょうか。 しかしこれこそが私のやりたかった私にできるお役目なのです。 導かれて初めて気づきました。 目からうろこです。 今後松の会を離れるのではありませんが、会主催の祭祀からは離れ、単独で祭祀を行い元神にお仕えしていきます。 大きな決断となりました。 9月からは朔日詣りが始まります。