かのととり(辛酉)

日月神示

上の写真は平成29年8月2日(辛酉かのととりの日)12:37仙台市若林区にて現れた龍神様を捉えたものです。

私は蛇ヶ岳神行の時、何故辛酉かのととりの日に行うことにこだわったのでしょう?ご神行をいつ行えば良かったか考えていた時「かのととりの日だ」と、ふっと浮かんだことは既に「続・蛇ヶ岳神行」で述べた通りです。日月神示では度々「辛酉はよき日と知らしてあろが」とか「辛酉の日に祀りて呉れよ」などと出てくることは頭にありました。しかし、さらなる辛酉の日との深い結びつきは後日判明することになるのです。

普段よく日月神示を読むのですが、はらに入っているとはまだまだ言えず、いつの間にか眼だけで追っていることもざらで、反省しきりだったある日のこと。読み進めてきて前回日月神示上巻を読み終え、その日下巻最初の黄金こがねの巻に入ったところあることに気付いたのです。黄金の巻第十帖以降かのととり(の日)。一二十ひつきのかみの署名が続くのです。「まさか……」その直感は当たっていました。このかのととり(の日)。一二十ひつきのかみの名の付く神示は第十帖から第四十四帖まで続いていたのです。そしてそこに「一四三〇一四三〇ビョーサマビョーサマ、……」で始まる第三十帖も含まれてたのです。この帖は日月神示の中でも最も難解なものの一つではないでしょうか?

黄金こがねの巻 第三十帖                                     一四三〇一四三〇ビョーサマビョーサマ、改心早う結構ぞ。道知るのみでは何にもならん。道味はへよ、歩めよ、大神の道には正邪ないぞ。善悪ないぞ。人の世にうつりて正と見え邪と見えるのぢゃ。人の道へうつる時は曇りただけのレンズ通すのぢゃ。レンズ通してもの見ると逆立するぞ。神に善と悪あるやうに人の心にうつるのぢゃ。レンズ外せよ。レンズ外すとは神示読むことぞ。無き地獄、人が生むぞ。罪ぞ。曲ぞ。今迄は影の守護であったが岩戸ひらいて表の守護となり、裏表揃うた守護になりたら、まことの守護ぞ。悪も善も、もう隠れるところ無くなるぞ。かのととり。一二十ひつきのかみ         私は日月神示に出会ってからしばらくは上巻のみ手元にあり、平成10年を過ぎてから初めて下巻に触れました。今から30年近く前の話です。最初の黄金の巻を読んでいて、ページをめくり第三十帖が目に入った瞬間、時が止まりました。理解が追い付いていきません。なぜ一四三〇がここにあるのか?それも繰り返し一四三〇、一四三〇と示されるのか?ビョーサマ?ビョーサマって何?なぜ目の前にこの数字があるの?これは現実なのか?……ひとしきり混乱が収まると思考を放棄した自分が居ました。かなり長時間生命活動が停止していたようです。(まさに茫然自失状態)     そう、一四三〇は私の学生時代から使ってきた総ての暗証番号だったのです。第三十帖は私に呼びかけているのです。これは私にしか分かりません。(日月神示は八通りに読めると示されますが、私以外にもこの呼びかけを自分のことと受け止められる方がいらっしゃるのではないでしょうか)この話は松の会では広く知れ渡っています。その時は特に気に留めていなかったのですが、この第三十帖はかのととりに呼びかけられていたのです。改めてかのととりゆかりの前後の帖に目を落としてみると驚きです。関連が浮かんできたのです。

黄金の巻 第三十一帖                                   人民それぞれに用意して呉れよ。自分出しては集団まどいこはすぞ。力出んぞ、早うつくれよ。まと(太日月大神之宮)とせよ。と申してあろうがな。マトは光りのさし入る所、的として月一度出せよ(月次祭の斎行)。自分の小さいこと知れる者は、神の国に近づいたのであるぞ。かのととり。一二十ひつきのかみ   黄金の巻 第三十二帖                                   神の道に進むために罵れることは人民の喜びぞ。(ついに○○ちゃん神様はじめたぞ、金から神へ…など皆言われてきました)その喜び越えて神の喜びに入れば罵られることないぞ。神敬ふはまだまだぢゃぞ。早うサトリて、神に融け入れよ。かのととり。一二十ひつきのかみ                     黄金の巻 第三十三帖                                   神国、神の三八みや早うつくれ。(太日月大神之宮おおひつきおおかみのみやを建立)今度此処へ神が引寄せた者は、みなキリストぢゃ。釈迦ぢゃぞと申してあらう。磨けば今迄の教祖にもなれるミタマばかりぞ。(なれそうな方々ばかり…?)それだけにつみぶかいぞ。いわとあけて、めぐりはたせたいのぢゃ。このこと肚によく判るであらうが。かのととり。一二十ひつきのかみ                               黄金の巻 第三十六帖                                   まことに求めるならば、神は何でも与へるぞ。与へてゐるでないか。(思い当たる事ばかりです)御用は神示見んと判らん道理判らんか。(日月神示の傍観者から理解者として神様の御用を務める意思を持ち実行して現在があります)誰にも知れんこと知らして、型して見せてあるでないか。(数多くの型を演じ、また見せられてきた一端はこのブログ参照ください)かのととり。一二十ひつきのかみ      黄金の巻 第四十一帖                                  このほうの許へ引寄せた人民、八九分通りは皆一度や二度は死ぬる命を神が助けて、(何度も奇跡的に命拾いした方がいます)めぐり取って御用さしてゐるのぞ。奉仕せよ。どんな御用も勇んで勉めよ。肚に手あてて考へて見よ。成程なあと思ひあたるであらうが。喉元すぎて忘れて居らうが。(よく考えると私も二度ほど死にかけ死を覚悟した目に合ってました)かのととり。一二十ひつきのかみ          これらの他にも私たちの活動に合致する多くの箇所が散見されます。

かのととりの記述には次のようなものもあります。                      日の出の巻 第十五帖                                  十柱とはしらの神様奥山に祀りて呉れよ。九柱でよいぞ。何れの神々様も世の元からの肉体持たれた生き通うしの神様であるぞ。この方、合はして十柱となるのざぞ。御神体の石集めさしてあろがな、あつく祀りて、辛酉かのととりの日にお祭りして呉れよ。……                        松の会で行った蛇ヶ岳での神事では、祭祀場に設けた神座に富士山頂石、鳥海山山頂石、気仙沼大理石、北海道黒曜石、鳥海山蛇石など、色違いのものを含め9個の石を配置していました。とどめに「辛酉の日にお祭りしてくれよ」です。後日答え合わせを見せつけられると、人知の及ばぬ大きな力(意思)を感じさせられます。

辛酉の日は十干じっかん十二支じゅうにしの組み合わせ60通りの一つで60日ごとの周期で訪れる、つまり1年間に6回程巡り来る日です。辛酉(かのととり)は時を限定する時の神でもあります。         くにつ巻 第二十五帖より抜粋                               時の神ほど結構な恐い神ないのざぞ、この方とて時節にはかなはんことあるのざぞ。……何事も時待ちて呉れよ。……この世では時の神様、時節を忘れてはならんぞ、時は神なりぞ。何事もその時節来たのざぞ、時過ぎて種蒔いてもお役に立たんのであるぞ……

日月の巻 第十帖より抜粋                                       辛酉の日と年はこわい日で、よき日と申してあろがな。

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